「教えることは、学ぶこと」佐治晴夫先生のエッセイより

 

 

 

生徒さんや、説明会にお越しくださる方などに、よく

「教える仕事がしたい。」とご相談を受けます

その思い!すばらしい!!どんどん教えていきましょ!と私は絶賛応援します。

 

教えることって、知識を押し付けることじゃないと思っています。

学ぶ人の『楽しい!もっと学びたい!!』という思いに火をつけることだと思っています。

だって、学ぶことって本人にしかできないから。

アロマセラピーを教えたい、と思ったら、どれだけアロマセラピーの魅力を語れるか。

だから、教える人の体験や経験値にかかっています。

 

エッセンシャルオイルに助けられたこととか、

トリートメントを受けて、心身がすっごく楽になったとか、

そんな経験から、アロマセラピーを教える道に入った方は、

アロマセラピーへの愛と信頼があるから、とっても素晴らしい先生になります。

 

私も、もっとアロマセラピーの経験を高めたい!と、日々アロマを楽しんでいます。

もっとエッセンシャルオイルと仲良くなりたい!と、日々香りと向き合っています。

そこから、作用とか、薬理とか、エネルギーとか、伝統医学とか・・・

興味の枠が広がって、追求したくなるんですよね。

 

 

昨日は魚座新月でしたが、太陽星座が魚座の私にとってインパクトの大きな1日でした。

私にとっての本当の仕事って何だろう?

これから、どこにどう向かっていくんだろう?

アロマセラピーの楽しさを、もっともっとたくさんの人に知ってもらいたい。

それには、何を大切にしたらいいんだろう?

 

そんなことを考えていた矢先に目に留まった東急沿線の情報誌 SALUS。

 

理学博士の佐治晴夫先生。「ゆらぎ」研究の第一人者ですね。

先生のエッセイが連載されているので、いつも楽しみにしています。

今回は、どんなテーマだろう・・・とワクワクしてページをめくったら、

 

「教えるとは希望を語ること」。

 

もう、タイトルだけで胸に込み上げるものが・・・(熱)

 

東急沿線にお住まいでない方のために、全文転載しますね。

何かを感じていただけたら嬉しいです♡

 

 

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音楽の都、オーストリアのウィーン。

市内をぐるりとひと回りするかわいらしい路面電車でヴェーリンガー通りまで行くと、

墓碑が2つ並んだ公園があります。

通称、「シューベルト公園」と呼ばれていますが、ベートーベンと並んで

シューベルトが最初に埋葬された場所です。

 

今は2人とも中央墓地に移葬されていますが、私にとってここは、

ウィーン時代にいつも訪れていた特別な場所です。

その理由は、詩人グリルパルツァーが書いたとされる墓碑の銘文にあります。

私なりに意訳すれば、

 

「音楽はここに豊かな財宝を埋葬した。いや、それだけではない、

 たくさんの美しい希望も埋めてしまった。

 フランツ・シューベルトここに眠る。」

 

この"希望も埋めてしまった"という表現には、

人生において他者に与えることができる最高、最善のものは希望であるという意味が

強くこめられているように思うのです。

言い換えれば、「教えることとは、希望を語ること」だと

言い換えることができるのではないでしょうか。

 

そういえば、今から30年ほど前、

ソ連が崩壊して東西ドイツを隔てるベルリンの壁が壊される直前、

モスクワ大学での講義を終えた後、旧ソ連のピオネール宮殿を訪れたことがあります。

ピオネールとは英語のパイオニア(開拓者)を意味する言葉で、

そこは10歳から15歳までの選ばれた少年少女たちの課外教育施設でした。

そこで、たまたま数学の授業を見せてもらったことがあります。

 

学んでいた内容は、大学の教養課程レベルの数学でした。

驚いて「難しいでしょう?」と子どもたちに尋ねたところ、返ってきた答えは

「とても難しいけれど、すごくおもしろい」でした。

「わかりやすくておもしろい」ではなく、

難しいけれども未来へのわくわく感を感じさせる授業だということに

衝撃を受けたことがあります。

 

教育とは、あえて言ってしまえば人間性の涵養が目的ですが、

その根底に生きていることのすばらしさの実感、

言い換えれば希望に満ちた未来展望を与えることでもあるのです。

 

ところで、「教える」という営みのなかには、

教える側にとっての「学び」がたくさん入っています。

特に小学生相手の授業をしてみると、

あるものごとの理解や認識の多様性に気づかされます。

 

そのことから、今まで気づかなかったものごとの本質に

あらためて気づかされる場面に直面することが多々あります。

「教」という感じの甲骨文の偏は二つの✖が上下に重なっていますが、

これは教える側と学ぶ側の交差を意味しているようです。

教えるとは学ぶことでもあるのです。

 

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